似非パラドクス。

携帯の充電器を持たずに、
父方の実家に帰りました。
一時、音信不通になりました。
ごめんなさい。
山梨に帰ると、
童心に還る。
猫のちーちゃんにありったけのマッサージを施しながら、
ごろごろしてる。
あと、夏なのでカエルを探しに行ったんだけど、
照れ屋なのか見つからなかった。
せっかく、水路に流して平泳ぎみようと思ったのに。
(小学生のころから欠かさずやってる遊び)
あとは、もちをついて、
お墓参りいって、
ブランコ漕いで、
かえる探しに水路辿ってるうちに迷子になって、
脅威の勘で家にたどりつく。


で、今日の夕方に何とか帰ってきた。
だって今日は22時からミーティング@渋谷。
ただし、SecondLife内で。
マシンのスペックがへぼいときつい、これ。
日本語で話せることに途中で気づく。
ミーティングとしてはチャットはきつい。
次回はがっかんで。
でも、身体感覚に関してはちょっと色々インスピレーションが湧いた。


唐突ですが、私、「言葉が世界を分節する」という考え方が大好きなんです。
「差異の体系」とか聞くと何かわくわくするし(笑)。
本当にくだらない屁理屈なんだけど、
何か自分なりに答えが出せない問いがあって。
「無」とか「死」とかって言葉はいったい何なのか。
「死」って言葉を例にとると、何か色々前提説明がいるから、
「無」って言葉で話を進めていくと、
「無」って「無」だから、「こっからここまでは「無」です」
って領域設定する訳にはいかない(笑)
境界を定めた瞬間に「無」は「無」じゃないものになる訳で。
なんだけど、「無」は「無」という「言葉」がある以上、
世界から分節されている。そして認識されている。
これはパラドクス?
ってみたいなくだらないことなどなどを、
寝てるとき以外の60%の時間考えてます。
何か、真剣そうな顔つきをしてるときは、
大体、こういったことや、
「あの女の子、こっち向かないかな」とか
考えてます。