彼氏はどこまで入れかえ可能か

四国はどこまで入れ換え可能か (新潮文庫)

四国はどこまで入れ換え可能か (新潮文庫)

完全にこの本の題名パクリな日記タイトルですが。


4月が始まってから2週間。
それなりに鬱憤というか何というか、何かが溜まってて、
思いもかけず「元気ないね」とか言われるし、
そういえば自分自身でも段々、無機質な人間になっているような気がしてきたし、
結構、ストレスフルで、
それでも無口で黙々と机に向い、フランス語しか口にしない日もあり、
英語しか見なかった日もあり、
リアリティについて延々と考えた日もあり、
それはそれで楽しいのだけど、
どことなくストレスが降り積もっていく(しかも大雪ペース)のを薄々と感じていた、
そんな2週間。


何でこんなに苛々してるんだろう。
遠距離恋愛の不安がこたえてるのだろうか。
この年で、恋愛うんぬんで思春期の高校生みたいに胸を焦がしてしまってるんだろうか。
もしそんなことが原因だったら、私はこれから先、どうやって平穏に暮らせるのだろうか。
そんな悩みが、私を引きこもらせ、何にも考えなくていいように用事を詰めさせていった。


その悩みは氷解した。
懸念は半分当たっていた。
離れ離れになったのが原因というのは正解。
だけど、恋愛うんぬんというのは間違い。


哲学とか哲学的とか哲学になってないことや、思想に関してとか、最近読んだ本についてとか
何か思いついた議論とか論題を彼にふっかけてとりとめもなく議論をすることで、
今まで精神衛生を保っていたわけだ、この1年半ほど。
先生とかに言うほどでもないというか言うのも恥ずかしいような、
些細な思い付き、考えを「遠慮なく」話すことができ、、
それなりのレスポンスが返ってくる存在。
それが今までの、そして今の私には必要であり、
それが彼氏だったわけだ。
この2週間、本を読んだりして降り積もった疑問、発見が、
私を暗く暗くしていた。すっきりさせなかった。


その原因が分かったところで、
今度はその役割を担う人を別に探せばいいのだけど、
これがむずかしい。
なぜならそれは私の精神的な問題だから。
「遠慮なく」話せるという精神的ハードル。
話に付き合わせることへの罪悪感がだれに対してもぬぐえない。


まだ4月だしね。
もう少しすれば見つかるんじゃないだろうか。
という楽観主義者。