肥えている。

Conspiracy of One

Conspiracy of One

オフスプは聴いてるとテンションが上がる。
あとオフスプのミュージックビデオはどれも好き。


2限寝ブッチ。
ごめんなさい。
いや、ちょっと食傷ぎみであった。


3限。
はい、電波な答案を出してしまった当の授業。
冬休みの間にしっかり復習しときます。
はい。


4限。
小林秀雄
満州の印象を書いたエッセイを読む。
でも当の授業は結局あまり時間がなくなってしまって。
というのも、
一人ずつ、このエッセイを読んだ感想を語らされたのだが、
それぞれに対するコメントにおいて、
先生がノリノリになってしまったため(笑)。
たじり先生が爆笑してるの初めて見ました。
小林秀雄が出た頃は「理論」を立てて、それに即して分析することが、
もてはやされていて。
当時、理論といえばマルクス主義とフォルマリズムだった。
それに反して、小林秀雄の批評は感覚的な記述で構成されていたために、
印象批評として、ただの感想じゃないか等の批判が出ていた。
ここに「主観を伴いかねない感覚的な分析」と「理論に基づいた、一見客観的な分析」
という方法論の対立があって、たじり先生が学生の時代にも、
理論がもてはやされたらしい。
で、ちょうど私も卒論の構想を練るにあたり、
その主観云々、ただの感想にすぎない云々を恐れて、
理論武装しようかと思いつつ、
理論で拾いきれないものがあることにも心を痛め、
方法論に頭を悩ませたというコメントをし、
更に、卒論の面談の時に「感想みたいにならないでね」というアドバイスをもらったと言ったら、
たじり先生が爆笑した(笑)。
そしてありがたいアドバイスを戴いた。
例えば、映画分析をするにしても、
その映画を見た時の「すごい!」や「素晴らしい」っていう感情的な感想というのは、
論文に書くことは出来ない。
けれども完全に理論武装された、頭で考えただけの論文では、
本当にその映画を理解しているのかというのは伝わってこない。
理想はかっちり学問的なメソッドをおさえつつ、
読んでる人がそこから感情や熱い思いを感じ取るような論文である。
そもそも「感想」と「理論」の二項対立という構図ではなくて、
感情的などろどろしたところから、理論というものが生まれてくる。
という構図なんだ。
というね。


バイト。
てか、私、今日、財布を持たずに来てた。
駅で交通費を借りる。
ありがとうございます。
バイトはいつも通り。