局所的に忙しい。
木曜日まで限定で、あほみたいに忙しいです。
てか、あほだから忙しいんです。
ライプニッツ終了まで駆け抜ける感じ。
飲酒運転の次は、いじめですか。
アジェンダセッティング。
多分、件数自体は変わってないんだよね、
どっちにしても。
ただ、マス・メディアに取り上げられる回数が増えただけなんだよね。
って、メディア論の教科書に載ってそうなことを言ってみる。
一歩引いてみてる自分が嫌いなんだけど、
でも、こう、あからさまにサーっと話題が変わってもらっちゃうと、
ちょっと醒めちゃうね。
ついでに言うと、自殺者の出た学校が「いじめの事実はなかった」と
強硬に言い張れるorそのような戦略をとるのか分からない。
「いじめの事実があったと認知していたが、放置していた」・・・1
「いじめの事実があったが、認知していなかった」・・・2
「いじめの事実はなかった」・・・3
とざっと、3パターンあると思うのだが。
保身を考えるなら、2のコメントをとるというのが一番、合理的理由では。
と穿った見方をする。
存在に対して「ない」って言い切る証明って、
学問的にもすごく難しいことなんだよね。
今回の場合、更に「いじめ」を示唆する遺書を残して自殺した子がいる。
という事実があるし。
少なくとも、それが「いじめ」という名前を冠するかどうかは別にして、
自殺する程の精神的なり身体的なりの苦痛を得ていたということがある。
本人がそれを「いじめ」だと感じ、自殺という行動をとった以上、
それは「いじめ」なんじゃないかと、無根拠を恐れずに主張したい。
要は言葉の使用の問題だよね、ヴィトゲンシュタイン先生。
学校の「いじめ」という言葉の使用と、被害者の「いじめ」という言葉の使用が違うっていう。
ってすごく話がずれたけど。
2のコメントをとるならば、その生徒はいじめじゃなければ、
何を苦に自殺したのかっていうツッコミどころが。
勝手に自殺したから関係ないとでも言いたいんでしょうか?
と、屁理屈をこねてしまったのだけど、
このブログにおいては社会問題に首をつっこまないと決めていた私が、
珍しく衝動にまかせて書いてしまったくらい、
いじめ問題には関心があるんです。
結構、大真面目なんです。